Monday, July 28, 2008

メキシコ料理




今回でのメキシコでの大きな収穫の一つは、メキシコ料理のおいしさを新たに認識したことだろうか。屋台に行っても、レストランに行ってもあまり“はずれ”がない。今回食べた、「Tacos」、「Enchiladas de mole poblano」, 「Pozole」, 「Sopa de Lima」, そして「メキシコ風ハンバーガー」のどれをとっても美味であった。

食べ物には、最初食べた時の印象はあまり良くないが、食べ続けると、病みつきになるものがある。その一つがTacosである。実は、16年前にメキシコ家族に滞在した当初は、毎日家庭で食べたTortilla(タコスの皮)の味と、Cilantro (香草)の味に慣れるの時間がかかった。今となっては懐かしい味で、今回の旅行では、毎日Tacosを食べている。

今回、特に感動したのはグアダラハラのメルカードの屋台で食べたタコスだ。そこは豚肉専門の店であり、豚肉の様々な部分を、玉ねぎや香草と共にトルティージャに包んで食べる。私が食べたのはCarnitas(皮)とSurtido(色々は部分が混ざったもの)である。焼きたての豚肉とCebolla(玉ねぎ)、Chile(チリソース)のコンビーネーションが絶妙の味を引き出してくれた。あまりにも美味しいので、結局、12個も平らげてしまった。

メキシコシティーに着いて食べた「Enchiladas de mole Poblano」にも感動した。あっさりした鶏肉を、チーズが入ったトルティージャで包み、チョコレートソースをかけたものだが、Queso(チーズ)とMole(チョコレートソース)のコンビネーションもこれまた絶妙であった。この味は本当に癖になりそうである。この繊細な味はフランス料理に似ているのかなとも思った。16年前に理解できなかったメキシコの素晴らしさを新たに認識した。

メキシコでのクロアチア人



グアダラハラからメキシコへのフライトで、隣の席に座っているクロアチア人に女の子二人に会った。グアダラハラにて1か月間、スペイン語の勉強をして祖国に帰るところだという。その二人(IVONAとMARINA)は共に22歳と若い。たわいもない世間話をしたが、驚いたことに、旧ユーゴの英雄であるストイコビッチ(現名古屋グランパス監督)を知らないという。ストイコビッチはセルビア人であるが、現役時代はユーゴスラビアの代表として、活躍していたにも関わらずだ。但し、よく考えてみたら、ユーゴの内戦は91年であるが、その前後に活躍した同氏の現役時代を、幼少の彼女が知らないのは当然である。但し、ユーゴが分断した為に、セルビア人であるストイコビッチが、クロアチアで英雄扱いされてはいなかったと想像すると複雑な気持ちになった。

つい最近まで、クロアチア人がメキシコに留学するなど、誰が想像しただろうか。冷戦が終焉し、時代は変わった。若いクロアチア人が流ちょうな英語とスペイン語を話し、世界を旅する時代になったのだ。ちなみに、彼らのヒーローは、クロアチア出身のK1ファイターのミルコ・クロコップだそうだ。女性が強い男に弱いのは世界共通のことなのだろうか??

ペンション・アミーゴ




16年ぶりにメキシコシティーのメキシコペンション・アミーゴ(日本人宿)に訪問した。この宿は、91~92年にグアダラハラに留学中に、メキシコシティーに遊びに来る際に定宿にしていたところだ。地下鉄のRevolucion駅から降りて約5分。当時の風景とあまり変わらない。駅から、Monumento a la Revolutionの方向に歩くと、懐かしの宿を発見した。当時は日本の国旗のみが看板に記されていたが、現在は、国旗と共に「ぺんしょん・あみーご」という表記もあった。偶然にも、ペンションの前で、日本人の宿泊者と会い、ペンションの中に入れてもらった。

宿の中に入ってみると、当時と異なり、壁が黄色に塗られており、当時なかった壁画があった。その頃は、内田さんというOwnerが居て、他の宿泊者と共に、時々、飲みに連れてってもらったものだ。内田さんとメキシコ人の奥さんのPAZさんの間には男の子の赤ちゃんがいて、当時、二人目のお子さんを妊娠していた。宿泊者の皆で、赤ちゃんをかわいがったものだ。その後、内田さんが亡くなったのは、当時のスペイン語を勉強していた友達やパックパッカーの仲間から聞いていた。

日本人の管理人の方にPAZさんを尋ねると、Pazさんは今でもここに住んでいるという。そして、久し振りにお会いすることができた。16年ぶりに会ったが、当時の雰囲気とあまり変わらないのは驚いた。知っている人に久し振りに会うのは感動的であるが、二人のお子さんと話をした際には更に感激した。16際と17歳になった二人をお子さんは、立派な少年になっていた。顔の表情といい、体格といい内田さんの面影がある。天国にいる内田さんも誇らしく思っているに違いない。お子さんに会ったことで、Pazさんとの再会は改めて16年間の時の長さを感じされられた。

ペンション・アミーゴは宿泊者が色々な思いを馳せてやってくる場所である。宿泊者はここで情報交換をし、メキシコで生活をしたり、次の旅先に立っていく。Pazさんには引き続き、メキシコに思いを馳せる旅行者の為にこの宿を続けてほしいと思う。

Saturday, July 26, 2008

メキシコの家族




昨日、何回も迷いながら、16年前に住んでいたHost Familyの家に辿り着いた。下宿先のセニョーラはご健在でお会いできて本当に嬉しかった。93歳のご高齢のせいか、当時の事はあまり覚えていないようで残念であった。但し、セニョーラのおしゃべり好きは相変わらずで、何回も「本当に貴方は日本人なのか?まるでメキシコ人のようだと」と大声で笑うしぐさは昔のままでほっとした。

対応した孫のRicardo(Host Brother)は、既に立派な青年になっていた。当時はまだ8歳で小太りで、自分のことをおっかけ回していた姿が思い浮かぶ。現在はいわゆるメキシコの“ジゴロ”風に変身していたのは驚かせられた。当時、飼っていた犬のスクービーはずっと前に亡くなったそうで、今は秋田犬を飼っていた。(もう一人の日本人と言って笑わせたが。。)自分の青春時代の一部を探しに来た旅であるが、16年間という時間の長さを強く感じた。別れ際に、セニョーラとは今後会える機会がないかもしれないと思うと、感傷的な気持ちになった。

メキシコの家族は皆が助けあい、笑いが絶えない家庭が多い。メキシコは貧困層が多いが、非行に走る青年は少ないという。それは、家族や親戚や、コミュニティーが子供に絶え間ない愛情を与え、非行に走らせないからのようだ。日本では、子供が親を刺殺する恐ろしい時代になったが、それは人々の心が分断されているからではないだろうか?日本人がメキシコ人から学ぶ点は多いと思った。 

日系人とグアダラハラ

















Mercado de Libertad(メルカード・デ・リベルター)はグアダラハラが誇る最大の市場である。ガイドブックによるとその数は4000店も及ぶという。革製品、電気製品、雑貨、レストラン、衣服等の様々な店があるが、本日、レストラン群の中で変わった光景を目にした。小さいレストランが何十軒も並んでいるが、その一部の店舗集団が、何故か、日本語の看板が多いのである。看板には、Takeo、中島、サオリ、MICHI、富士山(FUJIYAMA)の文字が並ぶ。しかもどれも日本食や魚介類のレストランである(魚スープ、魚揚げ、寿司等の店)。PESCADERIA "TOMAS" TAKEOという店にカウンターに座り、店のオーナーにその理由を聞いてみた。そのオーナーも若干東洋人のような顔をしているが、実は、日系2世だという。父親が福岡県の1世で、母親がメキシコ人だとという。Hideki Nakashimaさんという、そのOwnerは日本語も話せるのには驚いた。

実は、戦時中のメキシコの日系人は全て、グアダラハラ又は、メキシコシティーに強制移住させられたという。米国のように収容所に住まわせることはなかったが、当時、ティフアナ近辺に住んでいたHidekiさんの父親も、グアダラハラに強制移住させられたそうだ。移動させられたものの、商業活動の自由は認められ、日系人の何人かが、魚屋を始めたのがきっかけで、日系人全体にに魚の小売に従事する方が増えたようだ。Libertadで、魚介レストランで日系人のOwnerが多いのも、その名残だという。米国やブラジルへの初期の移民と同じく、Hidekiさんの父親も1918~20頃の移民だそうだ。参考までに有名な笠戸丸のハワイ移民は1906年、ブラジル移民は1908年のことである。Takeoで食べたSierraという魚のスープはさっぱりした味で美味しかった。

その後、Lupitaという魚介レストランに生き、Shigematsuさんという方と話をした。彼女の場合はメキシコ生まれであるが、6歳から日本に行き、19歳の際にメキシコに戻ってきたという。1948年に再び舞い戻ってから、しばらくして、旦那さんとともに魚屋を始め、現在、魚屋を始めてから48年目という。旦那さんが、かなり前に他界されたこともあり、その間、大変苦労されたようだ。話を聞く際に、飲み物を頂いたが、彼女が勧めた飲み物ということで、最後まで代金を受け取らなかった。

Hidekiさんの親切といい、Shigematsuさんの高潔さといい大変感銘を受けた。一時は100家族の日系人がいて日本人会の活動も活発だったが、現在は、2世、3世の時代になり、なかなか集まる機会がなくなったという。地球の裏側で、日系人が頑張っている姿に感動した一日であった。

Thursday, July 24, 2008

浦島太郎!グアダラハラに訪問する。

MEXICANA933でLOSからグアダラハラに到着。時間は22:30。飛行機の窓からは雨上がりの様子が見える。久し振りのグアダラハラ訪問である。1991年~1992年にグアダラハラ大学の外国人コース(Centro Estudio para Extranjeros)や大学本校の聴講生として、スペイン語学習を目的に留学して以来、16年ぶりの訪問である。正直、あまりの変貌ぶりに驚いた。空港のターミナルは近代化され、空港からCentroへの途中の高速道路は整備され、当時の面影はまったくない。車もかつてのオンボロ車は少なく、新車が多いような気がした。PEMEXのガソリンスタンドのイルミネーションがまぶしい。当時、存在しなかったSeven Elevenの登場にも驚いた。

Taxiの運転手によると景気は悪くないという。NAFTAの恩恵だという。治安は極めて良いとのことである。かつては、銀行強盗が頻繁にあったが、そのような事件は稀であるという。この16年間で、メキシコは政権がPRI(Partido Revolucion Institutional)からPAN(Partido Accion Nacional)に政権交代し、NAFTAにより、米国及びカナダ間との自由貿易が進んだ。Seven Elevenの登場は、その象徴だろう。当時の世論は、NAFTAは貧困層をより一層拡大するとの意見が多く、一般の庶民からは、感情的な意見が多かったと記憶している。NAFTAはメキシコの経済の成長を促進されたと共に、庶民を含む、人々の暮らしを底上げしたということなのだろうか。ちなみに、米国のNAFTAに対する反応は逆だ。選挙の影響もあるが、米国の民主党の議論等によると、アメリカ人の雇用がメキシコ人が奪われたということで、NAFTAが悪の根源としてやり玉に挙がっている。

HOTELに着いて、近くのCarne Asada(焼き肉)のレストランに行く。ビール(ボヘミア・ラガー)が250ペソ、Carne Asada(Tortilla付き)が700ペソ、ビール2杯飲んだので、全部で、1200ペソ、チップ入れたら、1400ペソ。ちょっと待てよ。高くね~か?15ドルくらいだから、1600円以上でしょ。昔のメキシコではありえなかった値段である。 但し、トルティージャと、カルネアサーダのコンビネーションは美味しかった。

明日はかつてのホストファミリーに行ってみようと思う。ホストマザーは高齢だったので、ご健在かどうかもわからない。大学のコースの場所も変わったようだ。16年間の長さを認識した一日だった。まさに浦島太郎はこのような気分だったのだろう。